2006年度1学期後期「実践的知識・共有知・相互知識」    入江幸男

第10回講義 (June 20. 2006

§4 共有知・相互知識についての従来の説(続き)

 

4、Sperber & Wilsonの「相互に明白」概念とそれの検討(続き)

 

■検討1(長所)■

「顕在的なもの」を「事実」から「想定」に変更したことは、偽なる信念が共有されている場合、確認された事実(知識)でなく、予期を含めて考えるときに、重要である。

 

■検討2(長所)■

たとえば、「チョムスキーがジュリアス・シーザーと朝食をともにしたことがない」という想定pが顕在的であるとするとき、「「pが顕在的である」という想定は、顕在的であろうか」これが顕在的であるためには、「顕在的」という語の定義が顕在的でなければならない。もし「顕在的」という語の定義も顕在的だとしよう。そのときには、これもまた顕在的であるといえるだろう。この後、これは何度も反復することができる。そのことが、知識にかえて、顕在性という概念を用いる利点である。

 

■検討3 認知環境の共有(疑問)■

「相互認知環境」は「誰がそれを共有するかということが顕在的である共有された認知環境」では、「認知環境を共有する」とはどういうことだろうか。彼らは、次のように説明している。

 

2つの生物体が同じ視力と同じ物理的環境を有する限り、同じ現象はそれらにとって視覚可能であり、視覚環境を共有していると言える。視覚能力と物理的環境は決してまったく同一になり、生物体は全視覚環境を共有することははい。その上、視覚環境を共有する2つの生物体が実際に同じ現象を見るとはかぎらない。単にそれが可能であるというだけである。」48

 

{これは、例えば次のようなことだろう。二つの生物体は、同じ視力を持っていても、決してまったく同じ物理的環境に二十歳得ないので、その視覚環境の全体を共有することはできない。しかし、これは部分的には視覚環境を共有するということであろうか。例えば、並んだ二人が、近くを見るときには、異なる視覚環境をもつが、遠くの山を見るときには、同じ視覚環境を共有するということであろうか。もっとも、遠くの山を見ても同じ現象を見るとは限らないが、しかし、同じ現象を見ることが可能ではある。(このように理解するとき、遠くの山を同じように見ているとしよう。しかし、それは、どのようにして、確認できるのだろうか。これもまた、問答によるほか無いであろう。)}

 

「同様に、同じ事実と想定は2人の人間の認知環境において顕在的な場合がある。その場合、二人の認知環境は交差し、その交差部分がこの2人が共有する認知環境ということになる。2人の人間が共有する全認知環境は、この2人のそれぞれの全認知環境の交差部分である。すなわち、この2人の双方にとって顕在的な事実全部の集合体である。もし人間が認知環境を共有するとすれば、それは明らかに人間が物理的環境を共有し、同様の認知能力を持っているからである。物理的環境は消して厳密に同一になる事はないし、認知能力は以前に記憶した情報に影響されて、ひとりひとり様々な点で異なるので、全認知環境を共有することは不可能である。さらに、2人の人間が認知環境を共有するといっても、同じ想定を作り出すということを意味するのではない。単にそれが可能だというだけである。」

(49)(強調、入江)

 

 

 

■検討4(批判)■

「相互認知環境」は「誰がそれを共有するかということが顕在的である共有された認知環境」(Any shared cognitive environment, in which it is manifest which people share it)と定義された。

ここでの「顕在的」は、ある人にとって顕在的であるということである。なぜなら、まだ「相互に顕在的」は定義されていないからである。

例えば、aさんとbさんが、cさんから別々に次のように伝えられたとしよう。「pです。そして、私はaさんとbさんにだけこれをお伝えします」

  (1)aにとって、pは顕在的である。

  (2)bにとって、pは顕在的である。

  (3)aにとって、(1)(2)は顕在的である。

  (4)bにとって、(1)(2)は顕在的である。

このとき、彼らの定義からすると、pはaとbの共有された認知環境の一部である。そして、「相互に顕在的な想定」=「相互認知環境の顕在的な想定」49という定義からすると、pはaとbの「相互に顕在的な想定」であることになる。しかし、pはシファーによれば、まだ相互知識ではない。

 「相互認知環境」にはもう一つの定義があった。それは、「顕在的な想定すべてに関して、その環境を共有する人間にそれが顕在的であるという事実自体が顕在的であるような認知環境」49 (In a mutual cognitive environment, for every manifest assumption, the fact that it is manifest to the people who share this environment is itself manifest.)(p.41) である。この定義でも、pはやはり、相互認知環境の一部であることになるだろう。

 

 

■検討5(分析)■

例えば「チョムスキーがジュリアス・シーザーと朝食をともにしたことがない」という想定が顕在的であるという。たしかに、この例のような今まで考えたこともないような想定であっても、もしその表示を意識したならばそれが真である(あるいは蓋然的に真である)ことを受容するような想定は、会話の中でしばしば利用されることになるだろう。ところで、このような想定が顕在的であるためには、チョムスキーとジュリアス・シーザーについての一定の知識ないし想定もまた顕在的でなければならない。そのような前提となる知識ないし想定がなければ、この想定が真であるとして受容されることはできないからである。

もし、この前提となる想定の一つが、「チョムスキーは、現代の言語学者である」であったとしよう。この想定は、上の想定が会話の中で登場するまで、意識されていないだろう。しかし、上の想定が会話の中で登場したときに、意識され、真なる想定として受容されることだろう。これは、私が真であると考えている想定のストックの中から選び出されたのである。それゆえに、真なる想定として受容される。この想定が真であることがどのようにして学習され、記憶されたのか、その経緯を記憶していようがいまいが、ここでは重要ではない。なぜなら、この想定が真として受容されるときのそのプロセスに違いがないからである。重要なのは、真ある事実として記憶されているということである。顕在的な想定は、このように記憶を前提とする場合のほかに、知覚を前提とする場合があるだろう。

 

さて、上の想定が会話の中で相互に顕在的であるためには、何が必要だろうか。

 チョムスキーとシーザーについての知識を相手が持っていることが互いにとって顕在的でなければならない。そのためには、互いに相手がどの程度の知識を持っているかについての想定が、顕在的でなければならない。それは、何に基づくのだろうか。それは、相手が持つ知識についてこれまでに記憶された記憶に基づく場合と、初対面の人の場合のように、それまでの相手との会話に基づく場合があるだろう。

顕在的な想定が成り立つためには、その前提に顕在的な想定がなければならず、この反復の最後の段階では、想定を受容することが可能な想定ではなくて、その時点でその人が現実に受容している想定がなければならないだろう。

たとえばpという想定が顕在的であるかどうか、相互に顕在的であるかどうか、を自問し、「そのとおり」と答えることができるときに、pを相互に顕在的な想定としてコミュニケーションの中で利用することができる。では、その問いを自問して、「そのとおり」と答えることができるためには、しかも相手も同じように答えると想定することができるためには、何が必要だろうか。その際に利用できる想定は、それもまた相互に顕在的である必要があるだろう。しかし、それでは、この問答はどこまでも続くことになる。そのような無限背進がないのだとすると、単に相互に顕在的であるだけでなく、現実に相互に知られている知を出発点としなければならないはずである。

 たとえば、二人が机に座っていて、その間に蝋燭があるとしよう。机の上に蝋燭があることは、現実に相互に知られているかもしれない。しかし、そのためには、例えばすでに、互いに「蝋燭」という語の用法、蝋燭という対象を知っているのでなければならない。それは、現実に相互に知られている事実ではなく、むしろ相互に蓋然的に想定されている事実である。